徳川家康の歴史と歩み

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関東へ国替え/年表[17]-[21]

秀吉の下で忍従/17-21

天正14年(1586年)11月1日、家康は京都に赴き、11月5日に正三位に叙任される。

11月11日には三河に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は居城を浜松城から駿府城へ移した。

天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任される。

その後、家康は後北条氏と縁戚関係にあった経緯から、秀吉と氏直の仲介役も務めたが、氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が始まる。

家康も豊臣軍の一員として出陣し、ここに秀吉による天下統一が成った。

その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封された。

これは150万石から250万石への加増であるが、徳川氏にとっては縁の深い三河の土地を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党など、なおも不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。だが、家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。なお、関東の統治は大久保長安や伊奈忠次ら、有能な家臣団によって難なく統治され、関東は大きく発展を遂げることとなる。

文禄元年(1592年)より、秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は北条氏の残党が反乱をおこすおそれがあることを口実に渡海することなく、名護屋城に在陣することだけで許された。慶長3年(1598年)より秀吉が病に倒れると、秀吉は後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老・五奉行の制度を定め、五大老のひとりに家康を任命した。

そして8月、秀吉は死去した。

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徳川家康 年表

元号

西暦

家康の歩み

天文11

1542

三河岡崎城で生まれる。幼名竹千代。[1]

天文13

1544

於大の方の兄信元が織田方と誼を通じたため、於大の方離別させられて刈谷城へ帰る。[2]

天文16

1547

9月人質として駿府に行く途中、織田方に付いた戸田康光に奪われて、尾張の織田信秀に送られ織田家の人質となる。[3]

天文18

1549

父広忠が家臣に殺される、24歳。今川義元が安祥城を攻め織田信宏を人質にし、人質交換として竹千代は駿府今川家の人質となる。[4]

弘治元

1555

元服して松平次郎三郎元信となる。[5]

永禄2

1559

駿府にて長男信康生まれる。(幼名竹千代を襲名)[6]

永禄3

1560

今川義元桶狭間にて戦死。5月23日岡崎城に急遽帰る。長女亀姫誕生。
駿府で竹千代の面倒をみた外祖母源応尼(於富の方)駿府にて没年行70余歳[7]

永禄4

1561

今川家から独立、織田信長と同盟を結ぶ。[8]

永禄6

1563

元康改め家康と改名。3月長男信康と信長の娘「徳姫」と婚約二人共5歳[9]

永禄9

1566

12月より朝廷の勅許を得て松平姓から徳川氏を名乗る。従5位下三河守に叙任される。[10]

永禄11

1568

三河を平定、浜松引間城に入る[11]

元亀3

1572

見方ヶ原で武田信玄と戦って大敗[12]

天正3

1575

織田信長と共に武田軍を長篠の戦いにて破る。[13]

天正7

1579

側室お愛の方(西郷局)三男秀忠(幼名長丸)を浜松城にて生む。織田信長の命にて正妻築山御前を
遠州富塚村にて殺させる享38歳、長男信康も二俣城にて自害に追い込む享21歳。[14]

天正10

1582

天目山の戦いで武田勝頼自害37歳武田家滅亡。6月2日本能寺の変、信長が明智光秀に殺される。家康泉州堺より急遽帰る。羽柴秀吉が山崎の戦いにて光秀を破る、13日光秀死亡[15]

天正12

1584

小牧・長久手の戦いの後秀吉と和睦。二男於儀丸を秀吉の養子に出す(羽柴秀康と改名)[16]

天正14

1586

秀吉の異父妹旭姫と結婚。10月18日秀吉生母大政所を人質として岡崎に送る。家康浜松より駿府に移る。家康正位権中納言に叙任される。[17]

天正18

1590

正室朝日姫京都聚楽第にて正月14日死亡48歳。秀吉と共に北条氏討伐、北条氏滅ぶ。秀吉より関東を与えられ8月江戸城に入る。養子に出した羽柴秀康が結城晴朝の養子となって結城秀康となる。故長男信康の長女が小笠原秀政に、次女が本多忠政に嫁ぐ。[18]

文禄4

1595

側室お亀の方伏見にて八男仙千代を生む。関白豊臣秀次自殺。三男秀忠、秀吉の命により故浅井長政の三女達子と結婚[19]

慶長元

1596

秀吉朝鮮再征を決定に家康反対、江戸に帰る。三女振姫は会津の蒲生秀行と結婚[20]

慶長3

1598

秀吉伏見城にて63歳で死亡。5大老、5奉行の合議政治となる。[21]

慶長5

1600

関が原の戦い大勝利。大阪城にて諸大名の整理をする。結城秀康を越前67万石に封ぜる。
側室お亀の方伏見にて九男(五郎太)義直を生む。(尾張家の祖)[22]

慶長6

1601

東海道の伝馬制度。朱印船貿易の制度。佐渡金山の直轄。伏見に銀座を設ける。板倉勝重を京都所司代にする。秀忠の三女勝姫生まれる。[23]

慶長7

1602

家康従一位に除せられる。[24]

慶長8

1603

征偉大将軍に任ぜられる。[25]

慶長9

1604

秀忠二男(竹千代)家光生まれる(三代将軍)[26]

慶長10

1605

家康は征夷大将軍を辞して大御所となり、秀忠がこれを継ぐ。[27]

慶長14

1609

オランダ船の来航を許可する。[28]

慶長16

1611

二条城で豊臣秀頼と会見。ポルトガル人に貿易を許可する。[29]

慶長19

1614

大阪冬の陣おこる。京都方広寺鐘銘事件起る。
側室阿茶局、11月22日和議の使者として大阪城に行く。12月21日和議成立。[30]

元和元

1615

大阪夏の陣。8日大阪城落城、豊臣家滅亡。
2月4日次女督姫(池田輝政正室)死亡享年51歳
一国一城令の公布。武家諸法度を定める。[31]

元和2

1616

家康太政大臣に任ぜらる。1月鷹狩の途中藤枝田中城にて食中毒、4月17日死亡享年75歳。
久能山に葬る。東照大権現の神号を贈られる。
[32]

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