徳川家康の歴史と歩み

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独立、信長 家康連合/年表[7]-[11]

織田信長との同盟/7-11

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、前線の大高城(尾張国)にあった元康は、今川軍が放棄した三河の岡崎城に入り、今川氏から自立を果たす。

永禄5年(1562年)には義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟を結び、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。

その後は今川氏と戦って三河東部に進出し、永禄9年(1566年)までに三河の一向一揆を鎮め、三河国を統一した。 この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、家康個人のみ、松平から清和源氏新田氏支流とする徳川に改姓した。

永禄11年(1568年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結び、今川領であった遠江国の大半を攻め取り、掛川城で氏真を降し、元亀元年(1570年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬に移し浜松城を築いた。

永禄11年(1568年)、信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。さらに後年、足利義昭は天下の実権をめぐり信長の間に対立を深め、反信長包囲網を形成した。

このとき家康にも副将軍への就任を要請し、協力を求めた。

しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。

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徳川家康 年表

元号

西暦

家康の歩み

天文11

1542

三河岡崎城で生まれる。幼名竹千代。[1]

天文13

1544

於大の方の兄信元が織田方と誼を通じたため、於大の方離別させられて刈谷城へ帰る。[2]

天文16

1547

9月人質として駿府に行く途中、織田方に付いた戸田康光に奪われて、尾張の織田信秀に送られ織田家の人質となる。[3]

天文18

1549

父広忠が家臣に殺される、24歳。今川義元が安祥城を攻め織田信宏を人質にし、人質交換として竹千代は駿府今川家の人質となる。[4]

弘治元

1555

元服して松平次郎三郎元信となる。[5]

永禄2

1559

駿府にて長男信康生まれる。(幼名竹千代を襲名)[6]

永禄3

1560

今川義元桶狭間にて戦死。5月23日岡崎城に急遽帰る。長女亀姫誕生。
駿府で竹千代の面倒をみた外祖母源応尼(於富の方)駿府にて没年行70余歳[7]

永禄4

1561

今川家から独立、織田信長と同盟を結ぶ。[8]

永禄6

1563

元康改め家康と改名。3月長男信康と信長の娘「徳姫」と婚約二人共5歳[9]

永禄9

1566

12月より朝廷の勅許を得て松平姓から徳川氏を名乗る。従5位下三河守に叙任される。[10]

永禄11

1568

三河を平定、浜松引間城に入る[11]

元亀3

1572

見方ヶ原で武田信玄と戦って大敗[12]

天正3

1575

織田信長と共に武田軍を長篠の戦いにて破る。[13]

天正7

1579

側室お愛の方(西郷局)三男秀忠(幼名長丸)を浜松城にて生む。織田信長の命にて正妻築山御前を
遠州富塚村にて殺させる享38歳、長男信康も二俣城にて自害に追い込む享21歳。[14]

天正10

1582

天目山の戦いで武田勝頼自害37歳武田家滅亡。6月2日本能寺の変、信長が明智光秀に殺される。家康泉州堺より急遽帰る。羽柴秀吉が山崎の戦いにて光秀を破る、13日光秀死亡[15]

天正12

1584

小牧・長久手の戦いの後秀吉と和睦。二男於儀丸を秀吉の養子に出す(羽柴秀康と改名)[16]

天正14

1586

秀吉の異父妹旭姫と結婚。10月18日秀吉生母大政所を人質として岡崎に送る。家康浜松より駿府に移る。家康正位権中納言に叙任される。[17]

天正18

1590

正室朝日姫京都聚楽第にて正月14日死亡48歳。秀吉と共に北条氏討伐、北条氏滅ぶ。秀吉より関東を与えられ8月江戸城に入る。養子に出した羽柴秀康が結城晴朝の養子となって結城秀康となる。故長男信康の長女が小笠原秀政に、次女が本多忠政に嫁ぐ。[18]

文禄4

1595

側室お亀の方伏見にて八男仙千代を生む。関白豊臣秀次自殺。三男秀忠、秀吉の命により故浅井長政の三女達子と結婚[19]

慶長元

1596

秀吉朝鮮再征を決定に家康反対、江戸に帰る。三女振姫は会津の蒲生秀行と結婚[20]

慶長3

1598

秀吉伏見城にて63歳で死亡。5大老、5奉行の合議政治となる。[21]

慶長5

1600

関が原の戦い大勝利。大阪城にて諸大名の整理をする。結城秀康を越前67万石に封ぜる。
側室お亀の方伏見にて九男(五郎太)義直を生む。(尾張家の祖)[22]

慶長6

1601

東海道の伝馬制度。朱印船貿易の制度。佐渡金山の直轄。伏見に銀座を設ける。板倉勝重を京都所司代にする。秀忠の三女勝姫生まれる。[23]

慶長7

1602

家康従一位に除せられる。[24]

慶長8

1603

征偉大将軍に任ぜられる。[25]

慶長9

1604

秀忠二男(竹千代)家光生まれる(三代将軍)[26]

慶長10

1605

家康は征夷大将軍を辞して大御所となり、秀忠がこれを継ぐ。[27]

慶長14

1609

オランダ船の来航を許可する。[28]

慶長16

1611

二条城で豊臣秀頼と会見。ポルトガル人に貿易を許可する。[29]

慶長19

1614

大阪冬の陣おこる。京都方広寺鐘銘事件起る。
側室阿茶局、11月22日和議の使者として大阪城に行く。12月21日和議成立。[30]

元和元

1615

大阪夏の陣。8日大阪城落城、豊臣家滅亡。
2月4日次女督姫(池田輝政正室)死亡享年51歳
一国一城令の公布。武家諸法度を定める。[31]

元和2

1616

家康太政大臣に任ぜらる。1月鷹狩の途中藤枝田中城にて食中毒、4月17日死亡享年75歳。
久能山に葬る。東照大権現の神号を贈られる。
[32]

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